週末は雑木林に囲まれて

八ケ岳に魅せられて、週末は八ヶ岳南麓で暮らしています。東京と行ったり来たりの暮らしの中で感じたことや考えたことを綴ります。

「やること」に満ち溢れている八ヶ岳の日々。

八ケ岳の山小屋から東京に戻ってきたら

留守番していた息子に、

「この雨の中八ヶ岳に行ってやることあるの?」

と聞かれました。

ないと言えばないし、

あると言えばあるし、

どう答えていいかその時はわからなかったのですが、

お酒を飲んでぼんやり考えていたら

だんだんわかってきました。

 

たぶん「やること」の意味が違うのです。

 

東京での「やること」というのは、

電車に乗ったり、人と会ったり、

打ち合わせをしたり、買い物に行ったり、

銀行に行ったり、ジムに行ったり・・・。

すべてが独楽のように回る経済軸から

弾け飛ばされないように

必死にしがみついているようなことです。

すべてが経済という支配者に

尻を叩けれていることのような気がします。

 

八ケ岳での「やること」というのは、

そういうことももちろんありますが、

その発露が違うのです。

空を見て雨が降りそうだと思ったら

それまでに花の苗を植えよう、とか、

部屋の中におがくずが落ちていたら

ひょっとしてキクイムシがいるかもしれない、

と思って屋根裏を調べるとか、

なんだか毛虫が多いなあ・・・と感じたら、

雑木林の木の葉をチェックするとか、

納戸の中が雑然としてきたなあ・・・と思ったら、

棚を取り付けてみるとか、

梅の実が大きくなったなあ、と思ったら、

梅酒を作ろうとか、

庭に並べた石が崩れていたら、

元通りに並べなおすとか、

すべてが自然と対峙する中から発生することばかりです。

いや、自分の命と向き合うことから

発生しているのかもしれません。

 

買い物に行ったり、打ち合わせに出かけたり、

銀行に行ったり、という行動は、

そのためのステップでしかないのです。

 

言い換えれば経済なんて

命を守るために人間によって編み出された

高等な手段でしかないのです。

 

自然豊かな田舎に行くと

リフレッシュするとかストレスが解消するとか

言われていますが、

どうも抽象的でわかるようなわからないような。。。

 

そうじゃないのです。

眠っていた五感が動き出すのです。

アンテナが敏感になるのです。

もちろん生きるために、です。

五感が動き出すと

頭も動き出します。

自分で解決策を出そうと

一生懸命になります。

それが想像力につながり、

その自分への気づきを

リフレッシュとかストレスからの解放と

言っているのではないかと思います。

 

八ケ岳から東京に戻る道中、

分厚い雲が少し消え、

青空がのぞき出しました。

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色々な形や色、大きさの雲が、

宇宙という立体空間の中に

おもむろに散らばっていました。

頭のすぐ上で足早に流れていく雲もあれば、

天高いところで

動かずに止まっている雲もあります。

こんな空を見ているだけで、

知らなかったことがあぶり出され、

知りたい気持ちが泉のように湧き出て、

家に着いたらすぐに調べようと

PCを開きました。

 

息子に言われたことに戻りますと、

「やること」とは「やるべきこと」ではなく

「やりたくなること」なのです。

その意味で八ヶ岳の生活は

都会以上にやることに溢れています。

 

人が人に戻るべき場所は

やはり自然の中にあるのだと思います。