週末は雑木林に囲まれて

八ケ岳に魅せられて、週末は八ヶ岳南麓で暮らしています。東京と行ったり来たりの暮らしの中で感じたことや考えたことを綴ります。

「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」

ぼくはあと何回、満月を見るだろう」という

坂本龍一さんの自伝が

『新潮』にて連載することになったと

過日ネットニュースに載っていました。

「新潮」7月号表紙

 

長くガンと闘いながらも

最後まで音楽を作り続けようとする

彼の想いを掬いあげるのは、

若い頃にアウトドアでご一緒した

尊敬する編集者の鈴木正文さん。

 

読みたくなって本屋に駆け込む前に

しかし、そのタイトルに想いが巡りました。

 

ぼくはあと何回、満月を見るだろう」

 

夏が大好きな僕はよく考える。

「ぼくはあと何回、夏を経験するのだろう」と。

 

20代の頃はあと60回以上も経験できると思うと

余裕と安心を感じていました。

ところが60歳になった今はというと

あと20回ぐらいしか経験できなくなるという現実を知る。

そうすると無性に寂しさや焦りが襲ってくるのです。

なので夏の回数を考えるのではなくて

太陽の陽を浴びる日数を考えることにしました。

するとその回数は、

年間の晴れの日を200日と想定すると、

200日×20年=4000日。

そう思ったら急に余裕が出てきて嬉しくなりました。

 

さらに太陽の陽ではなく

雑木林を見る時間を考えてみたら、

仮にひと月当たり100時間

雑木林に接していると想定すると、

100時間/月×12ヵ月×20年=24,000時間。

こう思ったら、永遠に幸せになれるような気がしました。

 

でも一方で

見つめているのが

夏という季節から太陽、そして雑木林と、

どんどん目の前の具体的なものになっていく。

言い換えれば想像の範囲が

どんどん狭くなっていっているような気がしました。

 

いつまでも幸せでいようと思ったら

どんどん自分の身の回りのことに

興味の範囲が狭まっていく。

歳を取るにつれて

我が儘で自分勝手になっていくのも

海外旅行に行きたくなくなっていくのも

保身に走るのも

例えばそれは猫は歳を取るにつれて

なわばりがどんどん狭くなっていくかのように

自分の命の安全圏を確保しようとしている行為なのかな、

なんて思いました。

 

先月還暦になって生まれ変わろうと

見た目”ちょい悪”を目指そうと、

服を新調したり髪を切ったり髭を伸ばしたり始めたのですが、

今日病院に行ったら

蓄膿症の気もあるし関節リウマチの傾向もあるし

不整脈の気もあるので、

MRIと心電図を取りましょう、と言われました。

見た目だけじゃなく

体も心も”ちょい悪”系になっているようで、

好奇心と体のエントロピーがせめぎ合っている自分を

ひしと感じました。

 

もとい。

 

ぼくはあと何回、満月を見るだろう」

 

その回数を考えずに

満月に感じる安心感とか幸福感の深さで

これからの人生をカウントしてみようと思いました。

 

おやすみなさい。