週末は雑木林に囲まれて

八ケ岳に魅せられて、週末は八ヶ岳南麓で暮らしています。東京と行ったり来たりの暮らしの中で感じたことや考えたことを綴ります。

記憶の中の原風景

 

夕暮れ時。

ここ四谷の自宅では、

アブラゼミとミンミンゼミの

競い合うような鳴き声と

時折救急車のサイレンの音が聞こえてきます。

 

今頃八ヶ岳では、

ヒグラシの輪唱と

その合間を縫って沢のせせらぎの音が聞こえていることでしょう。

 

行けないと思うと余計に愛おしくなる八ヶ岳

(先週ぎっくり腰をやってから、おとといまで寝たきりでした。

しかも鼻と喉がウイルスで炎症をおこしているとか・・・)

 

でも、どうして僕は八ヶ岳を選んだのだろう?

箱根があるじゃないか。

伊豆があるじゃないか。

房総もあったじゃないか。

那須も実家に近いじゃないか。

でも、縁もゆかりもない八ヶ岳に、なぜ???

 

暇に任せ、そんなことをぼんやり考えていたら、

一つの記憶にぶつかりました。

 

僕は福島の山の中の村で生まれ育ちました。

文字通り”山の中”で、人口も少なく、

1学年は10人に満たず

小学校3年と4年は合同学級でした。

そこに小学校5年の1学期までいました。

 

家は長屋(借家)で営林署の持ち物で、

2DKぐらいの広さだったと思います。

父親と母親と弟の4人暮らしでした。

 

隣(と言っても100mぐらい離れているのですが)は有名なマタギ

小さかった僕はその人が撃った熊の解体を手伝わされ、

そのお礼に熊の油や乾燥させた胃袋をもらいました。

それらはやけどや胃痛に効くと言われ

我が家の常備薬となっていました。

 

熊とかへびとか昆虫とか、そういう生き物は大好きで友達でした。

しかし僕はそんな暮らしが途方もなく寂しくて退屈で、

田舎を出たくて仕方ありませんでした。

東京はどんなところなんだろう?

ニューヨークはどんな街なんだろう?

そして世界地図を広げると

北極圏や砂漠などにある小さな町の印を見つけては

ここではどんな人がどんな暮らしをしているんだろう?

と、そんなことばかり考えていました。

そこに行ってみたくて仕方ありませんでした。

 

というのは、今だからやっとわかたのですが、

僕は自分の家が居心地のいい場所ではないと感じていました。

いつも家族という単位でいることが

とてもいやでたまりませんでした。

学校から帰ると誰もいない家で、

おやつというとニンジンにマヨネーズをつけて食べるしかなかったのですが、

それが嫌だったのでなく、

そういう”大草原の小さな家”を夢見ていた両親に

利用されているような気がしてならなかったのです。

だから誰も知らないような土地を一人探検している自分を夢見ていました。

 

 

家の前には雑木林が広がっていました。

ある夏の日、その雑木林を何気なく歩いていた時のことです。

(きっとキノコとか松ぼっくりとか、

そんなものを集めていたのだと思います)

林の中に落ちているたくさんの枝を見て

「そうだ、自分だけの基地を作ろう!」

とひらめいたのです。

それから僕は木の枝を集め、

上手に重ね合わせながら、

ちょうどかまくらのようなドームを作りました。

そうしてそこに

家から自分の大事なもの、

例えばミニカーとか色鉛筆とか画用紙とか

時刻表だとか集めていた切手だとか、

そんなものを持ってきて

自分だけの空間を作りました。

それらに囲まれて過ごす時間はとてつもなく自由でした。

ただそこにいるだけで、夏がもたらす自由を感じていました。

木漏れ日がキラキラを光るのを、きれいだなあ、と感じました。

サラサラという風で木の葉が擦れ合う音に、気持ちいいと感じました。

時折ガサガサっと音を立てる目の前の地面に、ドキドキしました。

当時その集落には、

東大卒の頭が狂った乞食が歩いているから気をつけろ、

という噂がまことしやかにあったのですが、

何となくその人が現れるのではないか、と期待していました。

 

いつの間にか夜になりました。

僕は不安も何もなく、このままここで寝ようとしていました。

(自分の居場所とは、夜を過ごして初めてわかるものです)

いよいよ眠りに入ろうとした頃、

懐中電灯の明かりが近づいてきて、

「何してるのこんなところで?心配したのよ!」

という母の声と驚きの目玉が、

基地の玄関からノックもなく怪獣のようにぬっと飛び込んできました。

 

僕はあっという間に家に連れ戻されました。

 

僕のやったことを両親は特別に怒ったりしませんでした。

基地も取り壊されたりしませんでした。

でも、「もう親を心配させないように」という

有無を言わさない強い口調に

僕はやっぱりこの家にはいられない、と思いました。

 

そうしてその後小学校5年の2学期のはじめに、

やっぱり教育を考えたら山の中よりも街のほうがいいのではないか、

という両親の考えのもと、

そこから1時間ほど下りた人口4万人程度の地方都市に引っ越したのです。

 

 

八ケ岳の家を買う前に

およそ5年ほど房総の勝浦、

海からクルマで6~7分ほど山に入ったところに

山小屋を借りていました。

農家がポツン、ポツンと点在し

周囲にはたんぼが広がっていて、

家の敷地には畑があって、

そこは”日本の原風景”というべき素晴らしい景色が広がっていました。

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これがその場所です。

 

東京だけの暮らしは息苦しくて、二地域居住に憧れて、

海か山か、迷っていたときにこの風景に出会い、

海でも山でもないこの里山を選びました。

一番最初は海に憧れ、海沿いの家を探していました。

が、どこかピンとこず、

(値段も高いというのもありましたが)

妥協の範囲を広げつつ

少しずつ山へ山へと登っていったら出会ったのです。

今思うと、ここにその時ピンときたのは

たんぼが広がり畑がある風景が、

引っ越した先の地方都市のそれに似ていたのだろうと思います。

なんだかとても懐かしくて

やっぱり僕の原風景は海ではなく里山にある!

そう思ったからだと思います。

 

しかし5年もしないうちにそこも引き払って八ヶ岳に移ったのは、

その風景が、自分にとっての本当の原風景ではなかったからだと

だんだん気づいてきたからだ思います。

 

原風景とは体験に基づいているものではないかと思います。

田園風景に憧れるのは日本人のDNA、なのかもしれませんが、

本当は米を育てる体験こそが原風景の礎になっているのではないでしょうか。

僕は田植えや稲刈りをした経験はありませんでした。

ただその風景をいやというほど見てきました。

しかしそれ以上に、僕は雑木林の中に木の枝を集めて基地を作り、

そこで大好きな宝物に囲まれて過ごした体験がある。

その体験こそが、僕を八ヶ岳に駆り立てたのだと思います。

 

ここに来るときは、できれば一人で来たいと思っています。

(とかいって、ギックリ腰して東京から人を呼ぶようでは

そんなこと言う資格なんてまるでないでしょ!

と家族にどやされるのはわかっています)

もちろん友人たちをたくさん招いて

夜通し飲もうなんてことは考えておりません。

本当にこころから話し合え、気心のしれない友人とだけ、

ひっそりと杯を交わしたい、ぐらいの感じです。

子供たちにこの家を遺産として残す、みたいな戦略もありません。

ただただ、自分の居心地のいい基地にしたいだけなのです。

 

草ぼうぼうの雑木林の中にあるこの家を最初に案内してもらった時、

それまで畑ができるか、とか、

雄大南アルプス八ヶ岳が望めるか、とか、

そういった判断基準がすっ飛びました。

自分の秘密基地になってくれる、

純粋にそう思いました。

今でも房総や伊豆の不動産情報をネットで検索したりしています。

ひょっとしてここより安い値段で

よさそうな物件があったらどうしよう・・・。

なんて、小心者は情けない事をしていますが、

そのたびにこの八ヶ岳を購入してよかった、と確信しています。

そしてその確信は、

小学生の時に体験した

秘密基地にあるのだと思います。