週末は雑木林に囲まれて

八ケ岳に魅せられて、週末は八ヶ岳南麓で暮らしています。東京と行ったり来たりの暮らしの中で感じたことや考えたことを綴ります。

「情」とは「愛」についたゴミ・・・?

1都3県の緊急事態宣言が出されましたね。

 

大きなところでいうと

飲食に関しては夜8時まで、

酒の提供は夜7時まで、

イベントやデパートやスポーツクラブなども

夜8時まで。

夜8時以降の外出自粛。

等々・・・。

 

ぼんやり想像したら

夜8時以降は都市も眠ります、ってこと。

だからみんなも家に帰って過ごしましょう、ってこと。

それって僕が10代の頃福島で過ごした暮らしと

何ら変わりありません。

そして八ヶ岳に行くと

当たり前の生活です。

 

小さい頃ものすごい山の中のポツンと一軒家に

住んでいたのですが、

夜市内から父のクルマで家に帰る途中

那須山の麓に温泉街の明かりが

転々と連なっていたのですが、

「あれはキツネの嫁入りといって

キツネが結婚式をしているんだ。

近寄っちゃいけない。

夜は怖いから家に早く帰るんだぞ」

と言われ、本気で怖くなっていました。

そうして家に帰って冷えた部屋を暖め

五右衛門風呂に入ると、

とても安心した気分になった記憶があります。

暗くなったら家に帰る。

日常はそういうものだと思っていました。

 

30年ほど前に

人間にとっての経済活動のバブルは崩壊しましたが

自然界にとっては人間活動のバブルが

いま遅れて崩壊しようとしている気がしました。

”懐かしい未来”に戻っているような・・・。

 

自然や地球に意思があって

人類を懲らしめようとしている、

なんてことは思っていません。

ただなんとなく地球は宇宙のルールに従っていて

それを越えた行為はただただ宇宙に浄化される、

それだけのことが起きているだけで、

僕ら人間はそれになんら抗うことはできずに

大騒ぎしているとても小さな命でしかないんじゃないだろうか。

 

こういうと反社と思われるかもしれませんが、

命が最優先という正義の下で

延命処置に近い施しを受けている高齢者よりも、

その分の手間や費用を

虐待を受けて死にたいと思っている子供や

経済的に困窮し夢も希望も失っている若い人たちに提供する方が

なんとなく自然のあり方に即しているような。

 

先日紹介した『大転換期の後 皇(おう)の時代』

という本の中にこんな言葉がありました。

 

「”情”とは”愛”についたゴミのこと。

情は可哀想という同情からくるもので、

相手の能力を尊重せず見下したところから出るもので、

大変失礼なこと。

真の愛とは自然の愛、つまり対価を求めず、

本人がどんな状態であっても本人の能力を尊重して、

温かく見守ってあげること」

 

あるがままの姿や状態を

あるがままのものとして受け止めて見守る、

それが本当の愛だとすると、

あるがままじゃない状態を強いられている人たちに

あるがままの姿になって欲しいと思うのでも

愛なのではないか。。。

いやまてよ。

そもそもあるがままじゃないと思うこと自体が情であって

余計なおせっかいではないのか。。。

 

ぎっくり腰で動けないせいもあってか

今日の非常事態宣言で

なんだか深く考え込んでしまった一日でした。

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